フットサルカフェ「KEL」ができるまで [桑原慶]
■過去記事
・フットサルカフェ「KEL」訪問
http://blog.so-net.ne.jp/dir_man/2006-06-05
・会社を辞めてから
http://blog.so-net.ne.jp/dir_man/2006-06-07
フットサルが一般的に広まったのは、前回のワールドカップ前後だといわれている。
桑原さんがフットサルをビジネスにと考え始めたのが1999年。先見の明があったといえるだろう。
しかし、それを軌道に乗せるには、投げ出したくなるような出来事も多々あった。
「会社にいた時代に、優秀なスタッフに囲まれ“表現する”ということを勉強させてもらったと思います。ただ、ゲームはこもりきりで製作しますし、チーム内でのコミュニケーションも少なかった。一般的に社会に出たら学ぶような営業だとかビジネスだとかは、まったくわからないままのスタートでした。資金をどう集めるかもわからないし、ビジネスモデルという言葉さえ知らなかった。だから苦労が絶えませんでしたね」
“どんなものが売れるか”についてのアイデアはあっても、それを形にすることができず、まずは、フットサルコートの空いている場所でカフェをやらせてくれるところを探そう、ということになった。
まず、最初に訪れたのは、現在のコートのオーナーでもある世田谷のコートだ。
2002年4月、クラブハウスの2階の空きスペースでカフェをできないかとプレゼンテーションをし、大筋の了解を得た。
コーヒー豆のメーカーや酒屋に会ったり、内装の見積もりを取ったり、有限会社を立ち上げたり、テスト販売を行ったり、など着々と物事は動いていたかに見えた。
が、7月、諸事情によりこの案件は頓挫。
ぎりぎりのところでやっていたにもかかわらず、成功を目前に計画はいったん潰えた。
桑原さんが「フットサルカフェをやりたい」といっている、という話は、フットサル関係者のなかでも広まっていた。そのため、さまざまところのフットサルコートのオーナーから「うちでやってくれない?」と声をかけてくることも多かったそうだ。
だが、実際はカフェではなくて、露店みたいな形式で飲み物を売るようなもの。自分たちの理想としているものと現実との違いに悔しい思いをしながらも、食い扶ちを稼がなければと幾度もそういう仕事をこなした。河原でウーロン茶のペットボトルを売ったこともあるという。
そうこうしているうちに、再びチャンスはめぐってくる。
「地元の友達が静岡から東京に進出する会社の社長を紹介してくれて。夢を語ったら、“ビジネスとしては具体的なプランが無くて最悪だが、目がいいから”と3社が出資してくれることになったんです」
11月には株式会社になり、出資者の関係で、都内某所にショールーム付帯の簡易的なカフェを出店することになった。
ところが、本体のショールーム自体の集客ものびず、客が入らない。後から知ったのだが、そこは飲食店ができてはつぶれていく飲食不毛の地。
「リサーチ不足や、仕事をうける際の経営判断の未熟さも大いにありますが、フットサルでカフェをやりたいという志を掲げてるのに、フットサル以外のことをやっていて、しかも売り上げも伸びないというのは、すごくつらかったですね。どうせつらいならフットサル関係のことでつらいほうがいいと思いました」
寄せては返す波のように、現れては消えていくチャンス。そんな逆境のなかでも、「仲間がいたから“引き返そう”と思ったことはない」という桑原さん。なんとかフットサルの方向にもって行きたいという気持ちは高まっていた。
その年の12月、とうとうフットサルに近づく仕事が入ることになる。
「最初の世田谷のフットサルコートのオーナーが横浜にコートを出すことになったんです。拡大路線だったので、ほかにもコートをつくって。その運営をやらないかと持ちかけられました。カフェをやるという話はなかったのですが、とにかくフットサルに関わりたくて、飛びつきましたね」。
2003年の初頭には、フットサルに関わる仕事が軌道に乗り、“次はカフェだ”と意気込んだ。
そして、2003年9月、コートのオーナーが現在の物件を見つけ、11月にコートをオープン。資金的にはむずかしかったが“このチャンスを逃がす手はない”と、翌年1月にフットサルカフェ「KEL」をオープンした。
http://kelnews.exblog.jp/
次回へ続く・・・
共通テーマ:スポーツ
コメント 0