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深作欣二―オヤジ―の笑顔を見て映画監督に憧れた~映画監督を目指した理由~ [深作健太]

このコーナーで、いつかは映画監督の取材をしたい、したい、と思ってはいた。
しかし、それが、こんなに早く実現するとは。
それも、東映の若きエースで、あやや主演の『スケバン刑事 コードネーム=麻宮サキ』の監督、しかも、あの巨匠、深作欣二監督の息子さんの深作健太監督である。
それはもう、びびりますよ。前日一睡もできず。



「スケバン刑事 コードネーム=麻宮サキ」9月30日より全国ロードショー
(c)2006「スケバン刑事 コードネーム=麻宮サキ」製作委員会
http://www.sukeban.jp/


9月30日(土)に『スケバン刑事 コードネーム=麻宮サキ』の公開を控え、監督は取材はぎっしり。
前の取材が押していたが、待っている間も何も手につかず汗がじっとり。
「どんな会話からはじめればいいんだろう」と考えすぎて頭はぐったり。


バカな質問をしようものなら、取材はパーンと打ち切り、追い出されるんじゃないかとビクビクしながら応接室のドアを開けた。



が、次の瞬間、今までの緊張が一気に解きほぐされた。
深作欣二監督とは、まったく違う印象(欣二監督にお会いしたことはありませんが)。
健太監督は、ものすごく人懐っこい笑顔で私たちを迎え入れてくれたのである。





健太監督が生まれたのが1972年、ちょうどお父様の欣二監督が『仁義なき戦い』を撮り始めたときだ。
そこから約10年間、欣二監督はほとんど京都で撮影だった。“京都の撮影所に行けばオヤジに会える”と思って、機会があれば遊びに行っていたそうだ。


「覚えてるのは5歳ぐらいなんですけれども、“用意、スタート”って言ってオヤジが走り回ってる姿がすごく楽しそうで。家にいるとトドですからね、寝てるか、本読んでるか。でも、現場だとまるで別人。
子供だから、なんだかわからないんだけど、でも“みんなに『監督、監督』って呼ばれてるぞ”、“なんかあの人、ここでは監督らしいぞ”と思ったわけです。あんなに楽しそうなら、“オレも監督やりたい”と思って。
仕事の内容とか全然わからなくても、普通、男の子だったら、おまわりさんに憧れて、とかあるじゃないですか。それが自分の場合は、それが監督という仕事だったという」。





幼少期を過ぎると、漠然とした映画監督に対する憧れから、“どんな映画つくりたいか”と具体的に考え出すようになる。


「例えば『七人の侍』とか、名画といわれるものを見ると、たいていカッコイイお侍さんが、悪い人を斬り殺してて、ハリウッド映画みりゃ、カウボーイがインディアン撃ってて。
僕はどちらかというと、学校の先生に怒られるほうだったんで、“おれってインディアンじゃん?”とか、“俺って野武士じゃん?”とふと子供心に気づいて。
そうすると、正義の味方が活躍する映画が全部ウソに見えて、悪役が主人公の映画が作りたくなるわけですよ。自分の話として」。


そして、中学に入った健太少年に大きな事件が起こる。『仁義なき戦い』のビデオが出たのだ。




DVD『仁義なき戦い』シリーズ
東映ビデオより発売中


「衝撃を受けましたね。“俺が作りたい『悪役が主人公』の映画をつくってる”と。そしたら、たまたまその監督が父親だった。それまでは今までは“元気な父ちゃん”だったのが、とたんに“尊敬する映画監督”に変わるわけですな」。


それからも、欣二監督の撮影現場を訪ねていた健太監督だが、今までとは見る目が変わっていた。そう、それはもう映画を勉強する目だった。
そして中学、高校、大学と、自主映画を撮り続けた。でも、映画研究会などには所属しなかったという。


「映研とかがいやだったのは、短編を作らなきゃいけないから。予算の制約もあるし。僕は商業映画の監督になるんだって決めてたから、仲間みんなで金を出し合って、とにかく2時間の映画をつくろうと。中学生のときなんか、もう悪党ですな。友達からお金集めて、“学校に部費? 冗談じゃねー”っていって(笑)。8mmじゃ、現像代とかバカにならないから、ビデオテープで。でも、ちゃんと2時間を撮るんだって」。


家でラッシュ(編集する前のビデオテープ)を見ていると、欣二監督は一緒に観て、よく笑っていたという。ワハハと笑いながらも、“俺もこういうときは失敗したんだよ”と自らの話をしてくれ、“こういうカット撮るときは、あの映画観てみごらん”とアドバイス。





“巨匠ではなくって、部活の先輩みたいなノリですよ。オヤジの失敗話のほうが、難しい理屈より自分にはよっぽど生きてる”と健太監督は語る。


「例えば、シナリオで、長台詞があるとする。長台詞をそのまんま撮ると、すごく長いシーンワンカットで、人物が立ってるままで、面白くもなんともないんですよ。そしたら、“こういう時は俳優さんを歩かせればいい。いろんな場所を点々と歩かせればいいんだ”というんです。で、“俺も昔こういう映画があってさ”と映画を見せてもらったり、そういうタッチをやっているほかの監督の作品を見せられたりしてね。“あ、こういうことか”と学んでいったりしましたよ。


あるときは、“アクションシーンが面白くない”というと、“そういう時は三脚つけずに、手持ちでカメラマンも一緒に走るんだよ”と話してくれました。これはまさに、『仁義なき戦い』ですよね。その方法によって、画がどう見えるのかっていうのは、『仁義なき戦い』見れば一目瞭然ですし。
演出を変えて、当然人物がいっぱい走る、それを手持ちで追いかける。みんなが動き出すんで、撮影してても“これはおもしれー”と思って。例えば、そういうような技術を学ぶと、中学生高校生が作るアクション映画でも、画がどんどん面白くなってくるんです」。





そんな健太監督だが、大学卒業後、意外な行動に出る。


「オヤジの七光りでそのまま映画業界に入ったら、映画の捉え方がものすごく狭くなるような気がしたんですよ」。


実は、健太監督、大学を卒業して一番最初に就職したのが、映画とはまったく関係のない清掃会社。


「学生のときにアルバイトしていたのが、たまたま清掃会社だったんです。で、“仕事決まってなきゃこっちに入れば?”といわれて。僕を必要としてくれたのもうれしかったし、ビルが終わってから清掃に入るんで、夜の仕事が多いんですよ。だから、昼間は映画とか観たりできるんで」。


大学時代と、卒業してからとあわせて約6年間、この会社で働く。
けれど、映画を観ていると、“やっぱり現場に行きたい”という思いが募ってきた。
そこで、清掃会社で働きながらも、映画業界に足を踏み入れていく。


2006-09-25 21:45  nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(1) 
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